「コミュ力」は近く、死語になるかも

自分が大学生活で感じること。「飲ミュニケーション」についても少し語りたい。



つまり、男で「コミュ力」って言葉を使ってるやつが何となくダサいってことだ。(自分は男だから、女の子は分からない)

 

数股がバレたやつも、バスケサークルでダンクを決めまくってるやつも、GPAが3.5以上のやつも、youtubeで稼いでるやつでも、使っているやつは使っているけど。

でも、「こいつやるな」みたいなのをある瞬間に感じる人は、この言葉を使ってないと思った。使っているやつって、顔とか、人望とか、「コミュ力」とか、ガッツとか、実家とか、何かしらを「持って」いても、それに頼って精神の核みたいなのが欠如している場合が多い。


もちろん、良い人でも使うことはあるけど、それは何かしらの理由があるときだ。

ショボいやつはやたらと「コミュ力」を、乱用する。


高校まではそんなことなかった。「コミュ力」というのは圧倒的に個々人のパラメータとして存在し、その他のパラメータと相まってスクールカーストを形成していた。
人が人に話しかけるには「コミュ力パラメータ」が必要で、ないやつに話しかけられると、(例え自分もコミュ力がなくても)困惑していた。

例外はあれど、多くの場合そうだった。高校まで殆ど全ての生徒が、「コミュ力」には逆らえなかった。

けど、大学に入ったら、風向きが変わった。多分人間関係が開放的になったからだと思うけど、それが厳密な値ではなくなった。

 

依然としてカーストは存在する。陽キャ陰キャ。だけどそのカテゴリの実効は、絶対に小さくなった。

陽キャ」で友達が多くても心を開ける相手がいなくて内心病んでたり、陰キャでも普通に彼女がいてセックスしたり。陽だから、陰だからといって大事なことが語れるほどではなくなった。

だからだと思う。「コミュ力」という言葉を使うやつが、空っぽな奴だけだと感じるのは。本当のことに目を向けずに、幼稚で中身のない言葉で物事を語るのに、この言葉はぴったりだ。

そもそも人間関係って本来はマウントゲームみたいなものじゃ無いはずだ。良くわからない心の動きとか、世間の縁とかで、本当にたまたま形成されていくようなものな気がする。

 

 

一緒くたに語ってみる。

テレビとかで、年配の社会人が「Z世代は飲み会にこない!根暗なやつでもないのに!」みたいなことを言っているのを目にした。
自分は飲み会反対派ではないが、これは分かる。会社は金を稼ぐことを学ぶ場で、人の縁は別で作る。もちろん、飲み会で学べる稼ぎ方もあると思う。

昔は大事な人の縁すらも会社によってつないで貰ったりしたのだろう。結婚要員のOL とか。でも今はそんな時代じゃない。無駄な交際費はカットされ、会社に忠誠してれば結婚相手が用意されるなんてことはない。

 

だったらそこは割り切るしかない。無駄な縁は作らない。大事なものは、社会とは離れたとこで自分で作る。ネットとか。マッチングアプリとか。。。

 

コミュ力」とか、「飲むにケーション」みたいな言葉は、人の縁が社会の管理下にあった古い時代と共に去っていくのではないか。(それを望んでいる自分がいる)