ベーシックインカムの日本での導入についてつらつら

まーたひろゆきyoutubeで言ってる。

 

一番大きな疑問。大量のブラック労働者なしに、産業はもつの?

→最低限の一次産業すら分からない。住宅とか。インフラとか。文明が衰退するなんて嫌だよ???高速Wifi使ってたいよ。

 

まあブラック労働者が解放されるのは良いことでもあるんだけどさ。。。

それが要らなくなるなんて都合良すぎっていうか。。。

 

しゃぶ葉とかにネコ型配膳ロボットがあるから、少しイメージは湧く。自動運転とかも、どんどん実用化してるし。あんな感じで、どんどん機械化してくんだろう。人間の作業者には、特別報酬が出て。みたいな。

確かに服とかだったら、(良いのを求めなければ)機械で何とかなるだろう。石油プラントからユニクロまで。ディストピアみたいに複数から選べる統一格式で。

でも、食料品とか、住宅とか。。。これってかなり人の手いるでしょ。中国とかアメリカの穀物だったら機械で何とかなっても、日本の狭くて細かい畑に通用するとは思えない。住宅だって、3Dプリンタで作ったって配線とか配管とか相当人の手いるよ?

こういったものが、プラスαで行われるんだろうか??


あと逆に何もしないで家で何をするの?ネットフリックス見るの?みんな働いてない社会でドラマみても、「昔は大変だなあ」くらいにしか思わないでしょ。退屈。

 

わからん。文明が進歩したらそこら辺のハードルぴょんって越えて実現するのかな。

生成AIとかディープフェイクとかツイッターに多すぎるbotのせいで、何が本当なのか分からなくなってしまった。

 

 

関係ないしどうでもいいけど、詐欺師って見つからなければお金返さなくて良いのズルくない?法のバグでしょ

「コミュ力」は近く、死語になるかも

自分が大学生活で感じること。「飲ミュニケーション」についても少し語りたい。



つまり、男で「コミュ力」って言葉を使ってるやつが何となくダサいってことだ。(自分は男だから、女の子は分からない)

 

数股がバレたやつも、バスケサークルでダンクを決めまくってるやつも、GPAが3.5以上のやつも、youtubeで稼いでるやつでも、使っているやつは使っているけど。

でも、「こいつやるな」みたいなのをある瞬間に感じる人は、この言葉を使ってないと思った。使っているやつって、顔とか、人望とか、「コミュ力」とか、ガッツとか、実家とか、何かしらを「持って」いても、それに頼って精神の核みたいなのが欠如している場合が多い。


もちろん、良い人でも使うことはあるけど、それは何かしらの理由があるときだ。

ショボいやつはやたらと「コミュ力」を、乱用する。


高校まではそんなことなかった。「コミュ力」というのは圧倒的に個々人のパラメータとして存在し、その他のパラメータと相まってスクールカーストを形成していた。
人が人に話しかけるには「コミュ力パラメータ」が必要で、ないやつに話しかけられると、(例え自分もコミュ力がなくても)困惑していた。

例外はあれど、多くの場合そうだった。高校まで殆ど全ての生徒が、「コミュ力」には逆らえなかった。

けど、大学に入ったら、風向きが変わった。多分人間関係が開放的になったからだと思うけど、それが厳密な値ではなくなった。

 

依然としてカーストは存在する。陽キャ陰キャ。だけどそのカテゴリの実効は、絶対に小さくなった。

陽キャ」で友達が多くても心を開ける相手がいなくて内心病んでたり、陰キャでも普通に彼女がいてセックスしたり。陽だから、陰だからといって大事なことが語れるほどではなくなった。

だからだと思う。「コミュ力」という言葉を使うやつが、空っぽな奴だけだと感じるのは。本当のことに目を向けずに、幼稚で中身のない言葉で物事を語るのに、この言葉はぴったりだ。

そもそも人間関係って本来はマウントゲームみたいなものじゃ無いはずだ。良くわからない心の動きとか、世間の縁とかで、本当にたまたま形成されていくようなものな気がする。

 

 

一緒くたに語ってみる。

テレビとかで、年配の社会人が「Z世代は飲み会にこない!根暗なやつでもないのに!」みたいなことを言っているのを目にした。
自分は飲み会反対派ではないが、これは分かる。会社は金を稼ぐことを学ぶ場で、人の縁は別で作る。もちろん、飲み会で学べる稼ぎ方もあると思う。

昔は大事な人の縁すらも会社によってつないで貰ったりしたのだろう。結婚要員のOL とか。でも今はそんな時代じゃない。無駄な交際費はカットされ、会社に忠誠してれば結婚相手が用意されるなんてことはない。

 

だったらそこは割り切るしかない。無駄な縁は作らない。大事なものは、社会とは離れたとこで自分で作る。ネットとか。マッチングアプリとか。。。

 

コミュ力」とか、「飲むにケーション」みたいな言葉は、人の縁が社会の管理下にあった古い時代と共に去っていくのではないか。(それを望んでいる自分がいる)

思想が強い親を持つと最悪だ

人生が滅茶苦茶になる。100万回死んでほしい。

子供のころから自分だけなんか違う。悪い方向に目立ってしまう。理由はわからない。親や、一部の人間はそれを良いことだと言う。特別だ、と。でも自分が仲良くなりたい人間には敬遠されてしまう。

みんなと同じようにできない。同じようにやろうとしても、なぜか失敗してしまう。能力で劣っている訳じゃないのに。雰囲気とか、流れとか、空気とか、そういったフワッとしたものが理解できても、それに自分が混じるとその柔らかいものは壊れ、何も残らない。

子供の時は本当に理由が分からない。何も悪いことをした訳じゃないのに、真面目に頑張っているつもりなのに、なぜか自分だけダメだ。だからますます真面目になって、それでもやっぱり失敗する。

そういう悩みを親に相談しても、甘えるなと怒られるか、お前は間違っていないと肯定されるか、バカにされるかだ。ふざけるな。間違っているのは親、お前のほうだ。

思想が強い親は、そのやり方を継承した子供がコミュニティで通用しないことを認めようとしない。思想を決して否定しない。思想の「運用者」の子供か、それが通用しないコミュニティのせいにする。そして子供の悩みは永遠に解決しない。

思想が強い親の子は、生まれつき追い詰められている。世界で唯一の依り代となる親が狂っていても、子供は親を好きになり、その考え方を真似る。仮に疑問を抱いたり、親から距離をとるような素振りを子供が見せたら、親はあらゆる手でそれを阻止する。嘲る、怒鳴る、不機嫌になる、ご飯を抜く、無視をする、何件も電話をする、無理やり距離を詰めてくる。

そして子供が自分の思想の盲目な殉教者になったことを確信した途端、優しくなる。お前は正しいと言う。親の機嫌が良くなり、子供の家には束の間の平穏が訪れる。しかしその平穏は、地獄に通じている。

まさに洗脳だ。考えてほしい。世の中には一般的な価値観や風潮からかけ離れた人が一定数いる。誰だって少しは目にしたことはある。忘れているかもしれないけど。
そしてそうした狂った人にも子供は生まれるのだ。

0歳から続いた洗脳は、もはや洗脳じゃない。寧ろ社会の常識のほうが洗脳だ。だって生まれつきの価値観を否定されたら、それは間違っているとしか言いようがない。

社会は汚い、それは間違いない。でもその汚さは、その中で生きる人に力が与えられた証だ。思想が強い親は、社会の汚さに耐えられず、自分が否定されることを恐れ続け、世の力関係から逃げ、子供までも囲おうとする。

 

でも子供は学校に行かなくてはいけない。社会に出なくてはいけない。世の常識から外れた子供にとって、社会の風はとても冷たい。みんな等しく冷たいなら耐えられる。でも自分にだけ、拒絶的に冷たいのだ。

更に地獄なのが、学校もなかなか思想が強いことだ。子供に過剰な倫理が求められる。もちろん「普通の」家庭で育った生徒達は建前と本音をわきまえて居るから、学校の思想を「建前」として流せるが、強い思想の親の子は、それを「真実」だと思ってしまう。少しでも背いたら、ひどい目に合うと思う。自分が今辛いのは、倫理に背いたからだと。

そうやって周囲から浮き、過剰な倫理を真実だと思い込み、大人になってから物事の仕組みに気づいても、既に心は擦り切れている。燃え尽きている。

倫理は頭を良く働かせる。でも、何の役にも立たない「真実」のために頭を働かせ続けた子供が大人になったとき、実際の社会の道理に従い頭を働かせるための気力は残っていないのだ。

少年漫画の主人公が現代日本で活躍できない理由

自分は、少年漫画が好きだった。読む時間さえあれば、今だって読むことがある。少年期に勉強するときは、自分が戦いに挑む主人公の気分だった。悟空のように、ナルトのように、コナンのように。

自分が憧れていた彼らのスピリットの特徴を挙げてみる。
・本能に正直で、素直。直情的。
・賢くても、小賢しくない。理性や知性を感情が制御している。
・問題から絶対に逃げない。冷めた目線(メタ的な認知)に逃避をしない。
・(一般的日本人に比べはるかに)周囲の人間に心を開いている。隠し事をしない。

・ご都合主義を許さない。少しでも違和感があれば、徹底的に追及する。
・自身の達成と成長を行動の主軸に置く。
・自分の思いの為なら周囲の人間の感情を無視する。個人主義
・利益より理念で動く。
・打算的でない仲間がいる。(抑圧的でないという意味で)自然な公共心が強い。

勿論、漫画の展開の都合や、読者への印象とかの事情で、時々で変わったりするが、ストーリーの根幹には主人公達のこういったメンタリティの魅力があると思う。

でも、今考えると当たり前なんだけど、これができるのって「元々圧倒的に強い」人間だけなんだよね。ポテンシャルって結局決まってるし、強くない人間がこれをやろうとすると、浮いた情熱バカになる。

だから少年漫画が好きだった男の子たちも、思春期になってくると読まなくなってくる。自分はそのことに気付くのが遅かったので(認めたくなかったというのも含めて)、一時期は割と浮いていた。

もし悟空がサイヤ人でなかったら?ナルトが火影の息子でなく、九尾を宿してなかったら?新一の実家が借金まみれで、うな重のことしか考えられない頭脳だったら?

彼らのメンタリティをもってしても、数週で打ち切りになるだろう。

現実も同じだ。いくら彼らのような気持ちを持っていても、潜在的能力が低かったら、現実社会では生きていけないのだ。
口だけでかく、綺麗ごとを並べ、周囲にヘラヘラし、協調性がなく、無駄なことばっかやっている。力がなければ不良のパシリだ。虐めの第一ターゲットだ。

だから現実では、折り合いとして、彼らのメンタリティを持つならば、同時にそれが叶わないことを受け入れている諦めへの誇りを持たないといけないのだ。

ハーバードの図書館の金言

マサチューセッツハーバード大学の図書館には、「今寝たらあなたは夢を見る。今勉強したらあなたは夢が叶う。」という有難い教示の木彫りがある。

 

この囁きに駆動されるように学生達は寸暇を惜しんで机に向かう。

 

一方日本の大学生の私は今、夏休みなので一日中スプラをして疲れて寝ようとしている。そうすると脳裏にちらつくのは学業への不安諸々。ハーバードの金言が沁みる。

 

それでも、ポジティブに捉えたい。

「将来を犠牲に惰眠を貪ろうとしている」という事実は、

「自分は失敗行動をしている」という解釈と、「自分は贅沢な睡眠を摂ろうとしている」という解釈の、2つの捉え方ができる。

 

後者を選択しよう。

そうするとあら不思議。初めはただ惰眠であったものが、天使の至福の休息へと変化するのである。ハーバード、恐るべし。

日本の住宅街って汚いよね

日本の一般住宅街の街並みって、異様に美しくない。
デザインもバラバラ、景色に調和してない。中途半端にヨーロッパ風を真似つつ、中身は木造なので見た目と実際がミスマッチなのが多い。
立派で綺麗な家ほど、周囲との調和を拒む、大きな壁によって断絶されて孤島になっている。

じゃあ綺麗な国はどこかというと、ヨーロッパ、ロシア、東南アジア、西アジアなどはやっぱり景観が統一されてて美しいと思う。というかそれが本来なのだ。建物は各国の風土に合わせて作られるべきなのだから。
建築の技術レベルの問題というより、住んでる人たちの歴史、感覚の問題。

多分まだ折り合いがつけられてないのだろう。日本人本来の生き方をするか、欧米流の生き方を取り入れるか。だからどっちも中途半端に取り入れている気がする。和洋折衷と言えば聞こえはいいけれど。

まあ、日常生活を送る上ではトップレベルで快適ではあるんだけどねw
でも感覚的な豊かさっていう凄く大事なものを犠牲にしている。

なぜ「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがウケるのか

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを初めて見たのは、たぶん小学校の階段に貼ってあった掲示板か何かだったと思う。
それ以来もその問いに何回か遭遇して、当たり前のことを問う姿勢をバカにしつつ、実は重要な命題なのではないかとドキっとしたりした。

自分としては、それ自体に納得するような、スッキリする理由は記憶にない。というか最近は、「場合によっては人を殺すことは止むを得ない」とまで考えている。
そもそも死刑制度は殺人だし、自分には法と秩序が許せば多分殺す人間がいる。他の人にもいるだろう。目を覆うような凄惨な事件が毎日起きるこの世界では。

だからと言って、「理由があれば人を殺していい」という風潮になって良いとは一ミリも思わない。(当然だが。)

だからこの問いは、狂気染みているのだ。実際は許されると思っている複雑な人々の本音を消してしまう問いだから。

学問では、全てに理由が必要で、不合理な法則は消される。合理的思考を教える学校でも、規則の理由が求められる。ならば「人を殺してはならない」という誤っているのに(公然では)絶対に否定されない正義の規則は、その理由を考えさせることで合理主義を目指す生徒の内情を犯す、卑怯な問いとなるのだ。

深く考えれば考えるほど、
「自分は人を殺していはいけないと思っている倫理的な人間である」と、「自分は理由の分からない規則に縛られない合理的な人間である」という矛盾を背負わせるのは、自我の薄い子供には残酷である。