学校、会社に通い続けないといけない理由 The abuse of greatness is when it disjoins remorse from power.

大学2年生の自分が思ったこと。

twitterみたいな巷では、「辛かったら学校に行かなくても良い。勉強だけが人生じゃない」みたいな日本国憲法の国民の義務に真っ向から挑戦するような言説が度々見られる。
それは過激な思想で、現実、素直に楽しく生きたかったら、学校と会社に行き続けないとダメなことは、沢山の人間と話せば当たり前にわかる。

なぜそんな制度になっているのか。結論から言うと、「偉い人間が、自分の頭で考え行動することができないようにする為」だと思った。

高校生までは、「学力、あるいはそれに類する思考力が落ちるから」だと思ってた。
人間というのは学校に行き続けて勉強しないと、とことん馬鹿でクズでノロマになるからだと。人間は少しドロップアウトするだけで、致命的な知能の低下を起こし、また安定した友人関係を失い、生きることへの意欲そのものを失ってしまう生き物なんだと、思っていた。

そしてその仮説は、大学に入ったら完全に崩壊した。
大学には、高校のときまでとは比べ物にならないほど沢山の人間がいて、彼らは反証として十分すぎた。
大学では勉強しすぎない方が賢い。要領の良い奴ほど、勉強せずに単位をとっていく。
脳に悪そうなアルコールばっか飲んで、遊んでるやつは、人間関係が上手で実はすんなり進路を決めてたりする。勉強と知能なんて関係ない。
それに生きることの意欲や、自分の価値観をしっかり持ってる人も、学校に捉われない。学校外での活動をしたり、学校とは全く関係ない勉強に目を輝かせている。

真面目なガリ勉なんて割を食って目が死んでる、それは多くの会社にも通じるらしい。

でも皆、最後には流されて勉強をして、偉くなるように進路を決めていく。容量の良さは、制度に乗っかるためにフル活用される。できない奴はくよくよしてる。どんなに立派な思想を持っていても。
主体性はどこに行ったんだろう?なぜ社会的身分が、人間の意志より遥かに上に存在するんだろう?なぜ小論文の解答やESは、自分の思っていることを素直に言ったらダメなんだろう?

その答えが、宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を見て分かった気がする。映画では、主人公の大叔父が、「今日、世界を破壊するか否か」を毎日決め、その決定権を主人公に譲ろうとする。世界の安否の決定権。それこそが答えだと思った。

つまり、社会において権力を持つ人間は、「自分の考え」を持ったらダメなのだ。「自分の考え」が「世界は滅びる必要がある」になったとき、世界を滅ぼしてしまうから。世の映画では世界を滅ぼそうとする人物が時々現れるけど、この世界は未だ滅んでいないから。

例えば福島の原発事故。このドキュメンタリー風フィクション映画を見てて、思ったことがある。「仮に吉田所長が、原発を武器に、石原さとみを妻に欲しがったら、誰も逆らえないな・・・」「いや、仮に作業所に残った全員が美女100人と資産100億を欲しがったら、日本政府は交渉に応じざるを得ないかも。羨ましい・・・」ということ。
なんといってもメルトダウン寸前の原発が武器なのだ。東日本全域が人質なのだ。3月中旬において、日本で最も強かったのは原発内に残った数十人だった。

勿論彼らはそんなことはしなかったし、実際そういうことは基本起きない。リスクとリターンの問題ではなく、「倫理」の問題である。

まあリスクだけ考えても、
・そもそも原発はコントロールできない。少なくとも卓越した専門家抜きでは。
・所内の大半が団結しないとできない。
・その後の居場所の保証がない。残された家族は?
など大きすぎるのだが、成功したときのリターンも同様にデカすぎるため、利害だけ考えると(そして現場のパニックを考えると)そういうことがないとは限らない。

そんなとき、社会的身分を個人の意志より上位においた、日本国憲法が輝いてくる。
つまり、原発などの「高度な文明の専門知識・技術」及び「それを動かす権限」を持った「本当に偉い人」は、「自分の考え(=石原さとみ)」より、「社会制度(=キャリア)」を常に上位に考えるように育成されてきたから、土壇場でも自分の考えを優先するという選択肢がないのだ。

不登校・職歴空白というのは、「社会制度」より「自分の考え」を優先する(可能性がある)人間であるという証明である。そういう人間が社会から間引かれてきたから、東日本は2023年も居住可能なのである。

もちろんこのことは、あらゆる偉い職業に言える。偉い職業の人間は、大量の命の決定権を握る。それが「個人の考え」などというものに左右されてはならない。権力の濫用は、絶対に許されないのが文明社会である。

 

カエサルの時代は「権力の濫用は、良心を切り離したときに起こる」と言われていたが、核兵器ある今、性善説など1ミリもあてにしてはいけない。「権力を濫用するための、個人の意志など持ちえない」というのが、現代なのかもしれない。


いくらバイデンがボケても、核兵器のスイッチは決して押されない。(プーチンはどうだろう?)