なぜ「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いがウケるのか

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを初めて見たのは、たぶん小学校の階段に貼ってあった掲示板か何かだったと思う。
それ以来もその問いに何回か遭遇して、当たり前のことを問う姿勢をバカにしつつ、実は重要な命題なのではないかとドキっとしたりした。

自分としては、それ自体に納得するような、スッキリする理由は記憶にない。というか最近は、「場合によっては人を殺すことは止むを得ない」とまで考えている。
そもそも死刑制度は殺人だし、自分には法と秩序が許せば多分殺す人間がいる。他の人にもいるだろう。目を覆うような凄惨な事件が毎日起きるこの世界では。

だからと言って、「理由があれば人を殺していい」という風潮になって良いとは一ミリも思わない。(当然だが。)

だからこの問いは、狂気染みているのだ。実際は許されると思っている複雑な人々の本音を消してしまう問いだから。

学問では、全てに理由が必要で、不合理な法則は消される。合理的思考を教える学校でも、規則の理由が求められる。ならば「人を殺してはならない」という誤っているのに(公然では)絶対に否定されない正義の規則は、その理由を考えさせることで合理主義を目指す生徒の内情を犯す、卑怯な問いとなるのだ。

深く考えれば考えるほど、
「自分は人を殺していはいけないと思っている倫理的な人間である」と、「自分は理由の分からない規則に縛られない合理的な人間である」という矛盾を背負わせるのは、自我の薄い子供には残酷である。