大学生の、誰もかもが嘘くさい

子供の頃、自分と友達との間に距離なんてなかった。生まれるはずがなかった。「無条件で誰とでも好き合えた」というノスタルジーではなくて(寧ろ自分は人が苦手な方だったと思う)、好き、嫌いとか、あるいはそれ以外の感情、感覚も、根源的に他の人と分かり合えていた。世界の全てが、本物だった。

でも、小学校、中学校、高校と進むと、汚くて辛くても切実で本物だった世界が、その都度あっさり破壊されてしまった。「この世界を愛しても、どうせ数年後には破壊される」と学習した。だから自分と、世界で、距離を取るようにした。傷つきたくなかったからだ。

結果、大学生になった今、誰もかもが、嘘くさい。本当だと思えない。心が世界を愛するのをやめてしまったんだと思う。親や近所の人だって、偽物だらけの世界に自分を放ったっていうことで、信じられなくなってしまった。何も。

まあ、みんなそうだと思う。そうならないと、文明の都市国家社会は成立しない。
でも、例外がいることを大学で知った。

そいつらは、付属校の連中だ。小中高(大)一貫の連中だ。実家が太いやつらだ。奴らは、卒業の別れを経験しない。6年、3年、3年ごとの人間関係の喪失、切実な心の痛みを、受けずに済むやつらだ。小学校も中学校も、卒業式で泣いた経験なんてないらしい。

絶対に許せない。憎しみが抑えられない。この国の庶民は、当たり前で切実な人間関係さえも、ただ庶民に生まれたということだけで奪われないといけないらしい。

そいつらも、親に学校に入れられただけだから悪くない、というのは嘘だ。やつらは俺達に涙を流させている間も、楽しく笑っていたくせに、「同じ環境で育ちました」みたいな顔をしているからだ。

俺たちの世界を灰色にすることで、自分たちの世界の彩りを深めるやつらに、果てしないほどの痛みが与えられることは、俺の人生の課題の一つになったと思う。